ぼくらのビデオアート
佐藤 博昭(専門学校教員、SVP代表)

 ビデオアート ビデオアートという言葉に初めて出会ったのは、大学の2年生の時だった。確か授業の中で、NHKの「ビデオアートへの招待」という番組を見た時だったと記憶している。その番組には、現在、京都造形芸術大学の松本俊夫先生と東京造形大学の、かわなかのぶひろ先生が出演されていたはずである。作品解説と、いくつかの仕掛けを使ったインスタレーションの手法を、お二人が紹介するという構成だった。たしかテレビの中に金魚がいたし、ビデオカメラを使ったフィードバックにアナログのカラーライザーでリアルタイム画像処理を行う実演もあったと思う(記憶なので細部は不確か)。何しろ“ビデオアート”という言葉が新鮮だった。かつて幸村真佐男さんが「コンピュータ・アート、それは私にとってカレー・ウドンだった。概念形成と名付け方法の粗雑さが同じ程度という意味において。」(『美術手帖』'74年4月)と記していたが、私にとっては、粗雑さというよりも言葉の結合の唐突さにおいて、ビデオアートはコンピュータ・ウドンに近かったと思う。そのくらい、ビデオとアートはすぐには結び付かなかった。

 私は '81年に大学に入学したので、それはちょうどビデオ機器が家庭用として普及し始めたころであった。ソニーがベータマックス方式のVTRを発売するのが '75年、ビクターのVHSは翌'76年であった。当然とても高価なものだったし、ビデオカメラ(現在のような一体型ホームビデオではなく業務用の大きなもの)も学校に数台あるくらいだった。編集機器も学校のものはU-規格(3/4インチ)方式でとても大きなセットだった。私が初めて使ったビデオカメラは、ビクターのKY-1900というオレンジ色のボディーのものだった。学校から借りてきてカメラケースを開けたとき、これは物凄く高いのではないかと緊張した。ちなみにビデオアートの巨匠ビル・ヴィオラは学生時代、学校に入ったばかりの新品のポータブルビデオデッキをアパートの階段で滑って壊してしまったらしい。そのとき彼は、自分が乗っかってしまったくらいで壊れるのだから、ビデオなんてたいしたものではないと思って、ビデオ制作を開始したらしい。(ICCの電子図書館でこのエピソードのインタビューが見られます)やはり巨匠はスタートが違う。学生の頃、友人で初めてビデオデッキを買ったのは、木原君だったのだが、当時20万円くらいの買い物だったと思う。彼は4畳半の共同トイレのアパート黒竜荘に住んでいたが、クーラーを最初に買ったのも彼だった。

 忘れかけていた ビデオアートを今度はテープ作品という形で見せてくれたのが、中谷芙二子先生だった。3年生の授業であった。ビデオカメラや編集機器の操作を覚えるのは、テレビ局やプロダクションに就職するための手段なのだと勝手に思い込んでいた頃、授業内で紹介されたビル・ヴィオラを始めとする海外のビデオアート作品は大きな衝撃であった。また島野義孝、斉藤信、桜井宏哉など、学生が作った作品を見て、猛烈に嫉妬した。彼等はちょうど僕と同じくらいの年齢だった。実は、中谷さんが主宰する日本で唯一のビデオアート専門ギャラリー〈VIDEO GALLERY SCAN〉が開設するのが'80年で、'81年の春からはSCANでビデオアート新作公募展が始まっていた。僕が三年生の頃('83年)はこの公募展によって、ビデオアートの若い世代の作家が次々に作品を発表していた。彼らに刺激された私もなにやらアート作品らしきものを作ったりするのだが、それが見事にさえなかった。先述の木原君もアートを試みたが、マネキンの首が出てくるそれは、アートというにはどこか下品だった。一方、学生なのに作家とかアーティストなどと呼ばれる彼らを本当にかっこいいと思った。SCANを通じて彼らの作品は、海外のビデオアートフェスティバルなどでショウイングされていた。この“ショウイング”という言葉がまた、田舎者だった私の心を激しくとらえた。ビデオアートは上映ではなくショウイングに限ると思っていた。

 SCAN は公募展をスタートした時点から、日本のアーティストを海外に紹介するということを、ひとつの重要な仕事としていた。「SCAN'81 Autumn 第2回ビデオアート公募入選作品発表展」のパンフレットにはこう記してある。「SCAN'81は、新鋭による日本の新しいビデオアート作品の選抜展です。広く全国から作品を公募し、毎年新しい選考委員2名を迎えて選考されます。この公募シリーズを通してSCANは、多様なジャンルからできるだけ多くの秀れたビデオアート作品を世に出していきたいと願っています。入選作品はビデオギャラリーSCANで公開ののち、世界各地のビデオ展・フェスティバルへ日本を代表して送られます。」“世界各地”のしかも“日本代表”である。しかしこれは誇張ではなく実際にそうだった。ちなみに第1回の公募展ではこの最後のところが、「〜日本で公開ののち、外国各地のビデオ・センター、フェスティバル、画廊、美術館などへ巡回する予定です。」となっている。第2回の方が明らかに力強い。これはこの頃の様子を調べるとわかるのだが、70年代の終わりから、80年代にかけて、ビデオアートの国際展が急激に増えていることを背景としている。特に日本のビデオ作品を特集する展覧会もあった。また美術の公募展にビデオ部門ができ始めるのもこの頃である。

 '91年 までに15回を数えたSCANの公募展の作品や評を改めて見直してみると、日本のビデオアート表現の変遷がよくわかる。細かくは別の機会に書きたいが、特徴的な作品評を挙げてみる。とりわけ問題点を指摘している箇所を抽出してみた。「すべての作品に見られる問題点は、時間の構成の弱さにあると思います。それは、ビデオ作品のもっとも難しい要素であり、アメリカにおいてもその弱点は現れています。〜中略〜特に悪い傾向としては、既制の音楽をただダビングしてしまう。
 これはイメージづくりのとてもイージーな方法です。しかも音楽は他人の作曲をそのまま使っていたり、これは問題だと思います。」'81 Spring ビル・ヴィオラ。「誰にでも撮れてしまうことの、功罪があるなあ、と思ったのが、今回の全体の印象だった。このビデオの持つ手軽さは、最大の魅力ではあるけれど、そこに大きな落とし穴もある訳で、心してかからないとハードに振り回されるだけで終わってしまう。〜中略〜問題は撮れてしまうことを、表現の段階でどうセーブするかだろう。〜」'82 Autum 萩原朔美。「〜日本でビデオ制作の機材、時間、そして資金的サポートを探すのは至難の業であることはよく知っています。がんばって下さい。あなた方の作品は作り続ける価値があります。」'83 Spring マイケル・ゴールドバーグ。「コンセプチュアル(概念的)あるいはパーセプチュアル(知覚的)な作品が多く、ドキュメンタリーや物語風の物が全くなかったことに驚き、日本の作家が“ビデオアート”と他のメディアの間に一線を画していることに気づいた。」'84 Spring ゲイリー・ヒル。「応募作の多くにみられるB.G.Mは何なのだろう。作品が完成したというしるしのつもりなのか、それともビデオをより心地よくする為のものなのか。サウンドとイメージを組み合わせるのが間違いだとは言わない。寧ろ音は非常にパワフルになり得るのに、無視されたり、二義的な要素として考えもなく使われることが多すぎるのだ。」'84 Autumn ゲイリー・ヒル。「〜ひとつ考えられる理由は、ビデオアートという言葉が、社会的に浮遊し、ビデオアートっぽい方法が目の前にあるので、とりあえず何か作ってみたという安易さがある。そして、作品を作ることの動機や、作る前の心のときめきや、制作過程のさまざまな試みに対する真剣さがない。これでは、日本のビデオアートは風化してしまう。」(落選作品に対して、その理由として)'85 Spring 山口勝弘。

 厳しい評 ばかりをあえて拾ったために、作品がダメだったかのような印象を受けるかもしれないが、実はそうではなく、海外の展覧会での評価をみても、この公募展の作品の水準の高さがうかがわれる。作品に対する辛辣な批判が、きちんと出てくることの健全さが、SCAN を支えていたといえるかもしれない。'83 Autumn のパンフレットには、「SCANの運営について」として、公募展について次のように記してある。「WINNERS〜また選考委員を交えて、作家たちと作品について徹底的に語り合う機会を設けています。」私も公募展や個展を見に出かけたことがあるが、実際に作品ショウイング後のディスカッションがとても面白かったし、質問などがでてきやすい雰囲気だったと思う。SCANは大きなスペースではないので、15人くらいのひとが、作品をめぐって、話し合っているという感じだった。しかし、いやな思いをしたことがあった。確か'88年の「バーバラ・サイクス個展」の時だったと思うのだが、観客のひとりが、「みんな英語が解るんだから英語でやり取りすればいい」と言い出した。ところがだれも異論を唱えなかったので、そうなることになってしまった。私は今でもあのとき、「わかりません」の一言が言えなかったことを後悔している。もしかしたら所々頷いたりしていたのかもしれない。ああ恥ずかしい。しかしそんなことを言い出した奴もひどいと思う。私はあのとき、ビデオアートを見に来る人は、みんな英語がわかるのかと思っていた。しかし同じように頷いていた人は必ずいたと信じている。ちなみに通訳をしてくれる人はきちんといたのだ。

 SCANの公募展は 「JAPAN '87 VIDEO TELEVISION FESTIVAL」でのプログラムショウイングを境に、年1度の公募となり、会場も外に移し規模の大きなものになった。'90(14回)はハイネケンビレッジ・ギャラリー、'91(15回)は佐賀町BISで行なわれた。隔年で計3回行なわれた VIDEO TELEVISION FESTIVALについては、別の機会に、あるいは別のどなたかが触れるかもしれない。
 私にとってビデオアートの「場」はまさしくSCANであった。現在、専門学校で学生の作品制作を手伝いながら、自分の作品制作も行なっているが、上に引いた評にある言葉は、今でも思い当たることばかりである。ということは、こうした優れた「場」で起こったことが、充分に検証されていなかったということではないのか。今、私たちはもう一度こうした「場」を作ろうとしている。そしてこの文章を書くために資料を読んでいて驚いた。'85 Autamn のなかで森岡祥倫氏が指摘していることが、殆どそのまま私たちがこれからやらなければならないことなのだ。こうした課題はそのまま留保されていた。以下に引用する。

 1 新しい作家の出現、新しい作品の露出を促す“場”の必要性。その意味でこの公募展の存在価値は今後とも大きいが、その運営方法はこのままでよいか。年2回というサーキュレーションは、選考方法は…。

 2 特定の作家の活動を俯瞰出来る個展形式の発表会は、観客の興味を喚起しやすく、またジャーナリズムや評論にとっては作家論の前提となる貴重な資料を提供してくれる。相応のキャリアをもつ作家に、個展の機会をもっと与えるすべはないか。

 3 ビデオ・パフォーマンスやインスタレーションなど、パッケージ・メディアとしてのビデオの限界を越えようと表現形式の発表の場があまりにも少ない。新たな回路を作っていく必要がある。

 4 ビデオ・ライブラリーの不足。単に量(作品数)の問題だけでなく、作家のレファレンス視聴、評論家・ジャーナリストの研究にも供せるような運営ノウハウ構築の可能性がそろそろ問題にされてよい。ビデオアートに関するベーシックな研究や評論がこの国に育たない原因のひとつでもあるので、各地の大学や美術館のライブラリーともリンクした方法を早い時期に見つけ出したいものだ。

 5 一般のビデオ雑誌ではともすればハードウェア情報や市販のソフト情報の中に埋もれがちな国内外のビデオアート関連情報を、広く詳しく作家や観客に伝える専門媒体=ペーパー・メディアが必要である。

 森岡氏 の指摘は、現在、日本で唯一のメディアアート専門ミュージアム[Inter Communication Center]の活動に結実しているのだと思う。森岡氏はこのICCの設立から関わっている。ICCがメディアアートにとって重要な「場」であることはまちがいない。
 私たちはまた、小さな活動からスタートする。今、SCANではコア・メンバーたちが10人程度で“徹底的に語り”合っている。

 
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