ビデオアートの自立にむけて
波多野 哲朗(東京造形大学教授/映画・映像理論)

 その頃私はビデオが嫌いだった。 いや、ビデオそのものではなく、〈ビデオアート〉と呼ばれる一群の映像が嫌いだった。「その頃」とは、1970年代のはじめのことである。ビデオが新しい表現メディアとして注目されるようになって、作り手たちによるさまざまな試みが開始されようとしていた。ビデオは押しも押されぬ第一線の〈ニューメディア〉だった。この新しいメディアの登場によって映像表現の新しい可能性は拡大するだろう、と語られていた。

 ここでいきなり 私的な話に入りこんでしまうが、私はそれに先立つ数年前から草月アートセンターのシネマテークで働くようになって、〈前衛映画〉や〈実験映画〉の最初の波が日本へと押し寄せるその最先端の渦中にいた。「世界前衛映画祭」「アンダーグラウンド映画祭」「草月実験映画祭」などを開催するなかで、日本ではそれまでほとんど見ることができなかったかずかずの〈新しい映画〉に出会った。会場はいつも閑散としていた。それでも熱心なわずかな観客や、またそれらの映画に触発されて映画を作りはじめた日本の若い作家たちと一種の時代的な熱気を共有していた。私はそこではじめてアヴァンギャルドの豊かな歴史の厚みと広がりを知り、また作り手たちの情熱に触れた。シェルドン・レナンの『アンダーグラウンド映画』の翻訳に取りかかったのもその頃だった。私たちの仲間では「新しい映画」が一種の合い言葉だったが、その一方で「新しさ」とは一体何に対する新しさであり、「新しさ」の歴史とは一体どのような連続性を意味するのかといった問いのなかで堂々めぐりをしていた。

 私がそれから 数年後に始まった〈ビデオアート〉になじめなかったのは、それが先に見たような映画の歴史や時代的な情熱に対して、あまりに唐突で、連続性を欠いているように思われたからであった。そして正直なところこの思いは、〈ビデオアート〉を十分楽しめるようになっている現在でも、私の心の片隅に残滓として澱んでいるような気がしてならない。ここ数年程の間にビデオの名を冠する催しが次々と姿を消していった。替わって登場しつつあるのが〈コンピュータ・アート〉あるいは〈ディジタル・アート〉を名乗る催しである。ビデオはすでに〈ニューメディア〉ではない。すると〈ビデオアート〉とは、映画と最新の〈ニューメディア〉とを繋ぐたんなる中間項でしかなかったのか、という疑問さえ頭をもたげてくる。むろん私はそうした考えに与しないが、ビデオアーティストの雑誌『Re-Site』の発刊を機に、以下いささか理屈っぽくなることを承知で考えてみようと思う。

 新しいメディア が登場するとき、そこでの表現は決まって従来のメディアにおける表現との差異性を強調し力説する。このことはメディアの歴史の中で幾度となく繰り返されている。ビデオアートもまた例外ではなかった。ジャンルの確立をめざすムーヴメントとは元来そのようなものであり、一種の宿命とさえ言い得るだろう。従来の表現との差異性と同一性とが、あるいは非連続性と連続性とが、ともに静かに語られはじめるには、しばらく時を経なければならない。出発したばかりの日本のビデオアートは、意識的にも無意識的にも映画的遺産に背を向けたと思われる。しかし当時からすでに30年、日本のビデオアートは、はたして成熟の季節を迎えているのだろうか?

 それにつけて思い出されるのは、 一昨年の夏、原宿ビデオ研究会(現SVP)が開催した「Seven Japanese Video Artists・戦ふ映像」のトークセッションのことである。私を含むパネリストの発言がひと通り終わって、司会者が会場からの意見を求めた。すると、「作り手たちはなぜフィルムでなくビデオを使うのか」というひとつの発言をきっかけに、フィルムとビデオの違いをめぐってにわかに議論が白熱しはじめたのである。会場からつぎつぎと発言が続いて、議論は予定時間を過ぎてもなお延々と続いて深夜に及んだ。そこでの議論を要約するのは難しいが、長い議論を通じて一貫して問われ続けていたのは、ビデオ表現に固執することの意味、つまりは「ビデオ表現とはなにか」という問いであったと思う。

 ここで注目すべきことは、 「ビデオかフィルムか」といった問題ではないだろう。そのような議論は、私の身辺でも日頃から聞きあきるほど繰り返されている議論にすぎない。そしてついでに言ってしまえば、たとえどちらを好むにせよ、両者の間に絶対的な優位性などありはしないのだ。私が問題にしたいのは、むしろこうした議論がほかならぬビデオアートと銘打った作品上映の直後に、いとも易々と人びとの口にのぼり、しかもそうした話題が表現そのものへの言及以上に大多数の人びとの感心を引き付けてしまうことである。一体ビデオ以外のどんな表現ジャンルで、このような事態が起こり得るだろう。たとえば絵画展で、彫刻展で、あるいは音楽の演奏会や演劇の公演で。ここには明らかにビデオという表現ジャンルそのものの不安定さが顔をのぞかせている。はたしてビデオは表現領域としての独自性・自立性を持ち得ないのか。

 ところで、 一般にある表現領域(ジャンル)を成立させる決定的な要因は、そのジャンルが依拠するマテリアル(材料)の感覚的な性質にあると言われている。*(註1)たとえば聴覚=音に依拠する領域として音楽があり、視覚=色彩に依拠する領域として絵画が、視覚=線に依拠する領域としてデッサンが、視覚=量感に依拠する領域として彫刻があるというように。ではビデオが一つの表現領域として成り立つとすれば、それは一体何に依拠するのか。写真・映画・ビデオなどの映像表現が依拠するのは、マテリアルとしてはともに光であるが、それらの感覚的・視覚的な性質は大きく異なっている。たとえば写真と映画の場合、その感覚的な違いは、たんに運動の有無だけでなく、それらを取り込んでいるメディアの違いが、写真と映画というジャンルを大きく隔てている。しかし映画とビデオを比べるとき、そのマテリアルの感覚的な質にさほど大きな隔たりはない。むろん化学的なマテリアル(粒子)と電子的なマテリアル(走査線)、あるいは反射光(スクリーン)と発光(ブラウン管)といった違いはあるが、その違いは必ずしも決定的ではない。ビデオがプロジェクターにかけられれば、より映画に接近することになるし、そもそも両者の間には転換のための装置さえが存在する。その限りでは、映画とビデオを隔てる決定的な根拠は見当たらず、したがって両者がそれぞれ互いに分離し独立したジャンルを形成する根拠は極めて希薄であると言わざる得ないだろう。

 しかし、 両者がメディアを通して鑑賞者によって受容される在り方には、かなり大きな開きがあると思われる。そこで問題になるのが、社会的な慣習のなかでの両者の受容のされ方、あるいは両者が示す概念の違いである。たとえば「映画」や「FILM」という言葉が、その物質的素材としてフィルムを意味する一方で、それらがたとえブラウン管上に放映されても依然として「映画」「FILM」と呼ばれるのに対して、「ビデオ」や「ビデオアート」という言葉は、その物質的素材としてのビデオテープやビデオ装置などと全く無縁な世界を意味することはないだろう。その意味で「ビデオ」という言葉の示す概念は、ついにその物質的・物理的な意味から完全に解放されることはない。*(註2)だから「ビデオ」という言葉のあとに「アート」という言葉を加え、「ビデオアート」という呼称によって物質的・物理的な意味の拘束からの離脱がはかられるのであるが、それでも完全に解放されることはないだろう。それは鑑賞者にとって、「映画」という言葉がほとんど純粋に想像的な時間体験として了解されるのに対して、「ビデオアート」はそこに何らかの実在的なものが混在しているものとして了解されるからである。

 しかしこのことは 「ビデオアート」にとっていささかもマイナスの要因ではなく、むしろ「ビデオアート」の独自性を保証する積極的な意味を持つことになる。その物理的な実在こそが「ビデオアート」の空間的な表現を可能にするものだからである。ビデオが時間的な表現であると同時に空間的な表現でもあり得ること、これは映画では容易にはなし得ない。昨今のビデオアートの催しを見ていくとき、ビデオテープによるショーイング以上に、ビデオ・インスタレーションやビデオ・パフォーマンスが展示の中心的な位置を占めていることに気づく。それは「ビデオアート」が最終的に赴くであろう方向性を指し示しているようだ。そこではビデオの表現が一つの時間的な継起でありながら、同時にその物質的な実在性を露呈することで、空間と時間との境界を生きる表現であることを証している。それは「ビデオアート」という表現領域の独自性・自立性を保証するだろう。

 とは言え、 時間的体験を基軸とするビデオ・ショウが、「ビデオアート」の周辺へと次第に追いやられている昨今の事態を私は少しも喜んではいない。それはビデオを含む映像表現全体が、「アート」の枠組みの中にまんまと取り込まれるときに起こるであろう必然的な結果だからである。たとえば昨今の「ビデオアート」の展示は、もっぱら美術館を中心的な舞台としているが、従来の美術館という場そのものが明らかにモノの展示あるいは空間的な展示にこそ適した場であることにもう少し自覚的であるべきだろう。そのような場において、時間的な体験でしかない映像、すなわち“事件”あるいは“出来事”でしかない映像が受け入れられることはさほど容易ではない。それでも現代美術のコンセプトや評価基準にいささかでも接点を持つ映像であれば、救済される可能性はまだしもあるだろう。しかしたとえばドキュメンタリー映像のように、美術の評価基準に触れることなく完全に見捨てられてしまう映像もあるのだ。

 特に新しい表現領域では、 作り手や享受者たちみずからの内に宿りはじめた不定形で混沌とした情熱の持続に耐えきれずに、隣接領域の価値基準を援用してそこに安住するといった例は少なくない。しかしそのような価値のヒエラルキーでの安住は、コンセプトにはけっして還元し得ない時間的な体験である映像、信憑に基づく主観的で直感的な時間的体験である映像にとっては、最も致命的であるといわねばならない。この宙づりの、しかしこの上なく濃密な映像体験は、その度重なる享受の積み重ねによってしか評価されることはないだろう。

*(註1)浅沼圭司著「映画のために」ほかに拠る
*(註2)たとえば前世紀の終わりの映画の誕生は、<シネマトグラフ>という技術体の発明から始まったが、それは間もなく<シネマ>(=映画)という文化に対する呼び名へと変わっていった。そのプロセスではさまざまな既存の文化との連繁やそれらからの引用・吸収が行われた。<ビデオ>の歴史においてこうした動きはいまだ弱い。

 
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