ビデオとアートの再認識
濱崎 好治(川崎市市民ミュージアム 映像担当学芸員)

 1988年11月 に「川崎市市民ミュージアム」は開館した。構想段階から複合施設として、市域の考古、歴史、民族、美術、文芸と19世紀末に発達してきた複製技術によって生み出された視覚的な記録物や大衆文化を対象に収集、保存、調査、研究、公開活動を行ってきた。グラフィック、漫画、写真、映像部門がそれぞれの仕事を行っている。

 複製技術 がもたらしたものは、膨大な情報量であり、大量生産される物と消費のサイクルだった。映像も記録媒体という物があってこそ残される。もし消滅してしまえば、映像文化は失われる。20世紀になって、どれだけの映像が生み出され続け、残されてきたのかは誰も知りえない。むしろ、制作されたことすら忘れられ、その存在が、わずかに活字になって残っていればよいほうであろう。博物館で仕事をするようになって、リュミエール兄弟のシネマトグラフから100余年、映像の保存に対して、いったいどうすればよいのか、そのことばかり気にかけてきた。

 過去の映像 にはアートや劇映画ばかりでなく、ニュース映画やドキュメンタリーといったジャンルもあり、これまでにもフィルムライブラリーやアーカイブ運動はあったが、映像遺産に対する社会的な認知はまだ低い。映像の持つ歴史的、そして芸術的な価値の認識には、鑑賞行為を保証し、保存され公開される場がなければならない。当館も開館して10年になる。開館当初、公的なビデオレンタル店のように思われ、新作の映画がなぜないのか、よく聞かれた。博物館とビデオ、あるいは美術館とビデオ。映像ライブラリーの概念は、芸術文化の先進国であるフランスでも、シネマテーク・フランセーズに政府から補助金が出され、国立のシネマセンターを設立し、まずフィルムの保存に関する法的な枠組みがつくられた。テレビやビデオの記録性や芸術性に眼が向けられ、文化的遺産としての価値が認められたのは1982年のことである。日本では残念ながら、テレビやビデオの作品的価値を歴史的に体系化して保存する公的専門機関はない。もちろん、19世紀的な展示空間として、絵画や彫刻と同じレベルでビデオ作品の上映やインスタレーション、実験映像、パフォーマンスなど、コンテンポラリーな表現の中にビデオアート性が一般大衆に開示されてきた。しかし、未来においてビデオとは何かと問われたときに、いったい過去の現象や表現をいかに語り継いでいけばよいのだろうか。

 1979年、 NHKの教育テレビで「ビデオアートへの招待」という番組が制作された。日本で開発されたポータブルビデオ、発展が期待されるビデオ産業、ビデオアーティストの創作活動、新しい表現ジャンルとして潜在的な可能性への関心が高まった。また、即時的な機能を発揮するビデオドキュメンタリーは、対象に接近するリアルな記録性や新たなドキュメンタリーの方法論が確立するはずだった。ビデオはテレビとの違いから、自らの位置づけを思考してきた。写真や映画の視覚芸術の周縁にあって、初期の段階ではビデオテープレコーディング技術は記録できるが、保存には適さず、作品を残すという意識が希薄だったのではないだろうか。そのため、制作プロセスにおけるコミュニケーションの相互性など、コミュニケーションツールとしての媒体の役割が大きかった。

 日本で最初 の大規模なビデオアート展として歴史に残されるのは、1972年の「ビデオコミュニケーション・DO IT YOURSELF Kit」だろう。新しいメディアは、自分でつくるという可能性を持っており、シンポジウムは「表現ではなくコミュニケーションを」という題名だった。ビデオアートの試みは、完成作品よりも制作プロセスでの発見やコミュニケーション機能に意識が向けられた。あるいは視覚的な実験、またコンセプチャルなビデオ作品としての思考実験やビデオというメディアが他のメディアにもっていない何かが求められた。初期の頃の白黒テープ作品や装置などは、今では再現することは困難である。技術的な制約に狭められたビデオアートの歴史には、もはや残されていくものでしか語れない。

 20世紀の終焉とともに、 博物館が担う役割はこうした過去の記憶を残し伝えていく仕事でもある。しかしながら、あまりにも膨大な過去の映像の発掘と保存作業を想像しただけでも、終わりなき仕事の限界を感じる。この10年の間に映像関係者から資料や文献、2インチのVTRや作品を寄贈してもらった。映像ライブラリーの計画は、市民が映像を個人で選択視聴できる新たな空間として、20世紀を記録、表現した膨大なフィルムやビデオのマテリアルを保存のために媒体変換して蓄積し、研究視聴の利用を広げていくことだった。一般に市販される映画やビデオも集めてきた。その成果は次のとおりである。

1.時事・社会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・計1,469
ニュース映画、テレビニュース、ドキュメンタリー映画、テレビドキュメンタリー、ビデオ記録映像等
 
2.学術・文化・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・計 476
世界の民族誌映像、日本の民俗、川崎市の民俗、生物、人物伝記、考古・遺跡等
 
3.芸術・芸能・大衆文化・・・・・・・・・・・・・・・計3,969
アートドキュメンタリー、ビデオ・メディアアート、美術、伝統芸能、舞台記録、映画、アニメーション、コマーシャル、コンピュータグラフィックス、音楽等
 
4.スポーツ、趣味、実用等・・・・・・・・・・・・・・計 95
 
5.文献・雑誌・写真、印刷資料・・・・・・・・・・・・計9,485
戦前、戦後ニュース映画プレスシート、記録映画関係雑誌、コンピュータグラフィックス発達史資料、アートカタログ、映像業界誌等
 
6.機器、装置
2インチVTR、1インチVTR等

 以上は ビデオテープの概数及び資料点数だが、1万5千点を所蔵するにいたった。1980年代のビデオテープ作品を完成媒体とするアートを中心に海外作品も収集した。アートとテクノロジーの関心はコンピュータへと向かい、美術としてのビデオアートに収束したビデオ表現は、むしろ現代美術の拡張性や拡大する場を求めてアクティブなビデオ展覧会が行われた。80年代中頃は、高度情報化社会、ニューメディアという言葉が表す現象として、ハイビジョン、衛星放送、CATV、テレテキストなどの実用化に向かって社会的な情報システム構築の波が押し寄せてきた。
 そして日本の情報産業を巻き込み、メディアの代わり方が生活や社会の変化に関与してきた。その中でハードウェアの発達は利便性を求め、ソフトについては未開拓であるがゆえに何を表現し、どう伝えるかが問われた。しかし、新技術とメディアの積極的な利用は、経済的基盤と新産業を展望したもので、芸術や文化の創造を優先しえなかった。
 そして1988年、ホームビデオの個人所有が62.3%(NHK世論調査)、また全国に1万5千のビデオレンタル店(日本ビデオ協会調査)が登場し、活字文化の図書のように映像文化の視聴手段としてビデオが普及した。その一方で、パーソナルコンピュータが画像処理能力を高め、デジタル化が一躍進展し、インタラクティヴな関係とネットワークでつながれる双方向性によってコミュニケーション速度が飛躍的にあがり、膨大な情報の蓄積と複製技術が無数のコピーを生み、シュミラークルを実現させた。電子に還元される社会を予測したマクルーハンは1980年にこの世を去った。エレクトロニクスの変革は、過剰な技術信奉の中で、90年代にマルチメディアと謳われ、文字、音声、動画などの情報が複合的に提供されるという文句が繰り返し唱えられる。マクルーハンが着目したメディアと人間、あるいは身体との相互作用の変化、そして地球がエレクトロニクスメディアによって結ばれ、1つの村になること、この呼びかけに対して、アートの側からはどのようにこたえていくのだろうか。

 博物館 の内側にいると、19世紀末から投射され、外へ外へと発信されてきた映像をデジタルアーカイブの内側へ、メディアの歴史や多様な視座を見つけだしながら圧縮していくことに関心の眼が向いていく。視覚的な表現がいかに変容して、その影響を自分はどのように受けてきたのかを知りたいからだ。映像の考古学的な仕事は、ビデオアートの再認識にとっても大切なことである。また、美術館が文化装置として機能していくためには、アートの変遷を明らかにしていき、閉鎖的で権威的な美術ではなく、芸術の価値を批評家や学者が決めるものでもなく、新しい世代が自分たちで未来の芸術を作り上げていくのを美術館は見守っていくことだと思う。
 
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