2001無礼講Vol.9『移動する"此処"』

<2001/12/1レクチャー採録>
中沢 あき(映像作家)
 
 いつもですね、無礼講をやるときは、一回の上映会の中に3つか4つのプログラムを入れて、最後に「60分無礼講にする」というというのをやっていまして、それはうちのメンバーのうちの1人が、60分間を何かしら好きなことをやっていいと与えられるんですね。
で、毎回1人ずつやってきて、私はまだやったことがなくて、今回1人で1日この企画をやることになったんですけれども、考えてみたらこれは「60分無礼講」というよりは「1日無礼講」で、こんなに贅沢に時間をもらってしまっていいのかな、という感じなんですけれども。まあそんな中で、今回この「移動する"此処"」というタイトルでやらせてもらおうと思っています。

 それで、「移動する"此処"」という言葉の意味はこれから話していきたいのですけど、この企画を考えたのは、今年に入って、今回上映する3つの作品との出会いがあったんですね。
その中で共通点というのがありまして、それが自分の考えと繋がってきたという。それが何かというと、何処かへ向かっていくというか、そういうイメージを持っているもの、ということで私の中でまとまってきたんですね。今私は、向かっていく、とか、動いていく、とかすごく抽象的に言葉を選んでいるつもりなんですけど、こういう個人作品には、「場所探し」という言葉が使われるんです。
今回上映した作品もそういう感じがなくもないんですが、が、ちょっと私は「場所探し」という言葉に対してあまりいいイメージを持っていなくて、それを簡単に使うのはいやだなと思って、向かっていく、という言葉に置き換えたりしているんです。
「場所探し」といわれるような作品を見ていると、重苦しさを感じたり、引きこもったような感じを受けたり、あまりいい印象を受けなかったというのもあったんですね。ただ今回私が選んできた作品に関しては、私が思うには、何か開かれた感じ、というものがあると思って、今回こうした事を私が話すために、作品をお借りしました。
 
『cage』
新村雄亮
video/8分/2001

この作品は、僕の記憶なき頃の記録と、現在の記録との対比によって成り立っていま す。現在の僕は過去と比べると否定的で悲観的です。母親に守られていた頃とは違 い、自分で考え進まねばならぬ事に対して不安を抱いています。当時、二十歳になっ たばかりの僕は「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点であ る。」という高野悦子の言葉を頭の中でリフレインしつつ、劣等感と恐怖感と不安と 願望と焦りと死と生と『幸福であった過去のイメージ』というものをシャッフルして 吐き出した作品が「cage」です。ちなみに「cage」とはカゴという意味です。

作家プロフィール
1980年(昭和55年)生まれ。千葉県の普通の高校を普通に卒業後、日本工学院専門学 校マルチメディアアート科映像コースに入学し卒業、現在は同校マルチメディア研究 科所属。主にデジタル・ハンディカムを使用しビデオ作品を制作。フィルムにも取り 組みたいとひそかに思っているが新作の予定は未定。
 今日その「移動する此処」を話していくにあたって、作品の解説を絡めていこうと思ってるんですけど、
一番最初に上映した作品の話から行きたいのですが、まず「cage」
これは新村さんという学生さんが作った作品です。
で、本人のコメントにもあるとおり、これは親からの自立ということをテーマにしています。今の自分と過去に親などが自分を撮ってくれた8mmフィルムの映像を混ぜ合わせて作っている作品なんですね。
そういうものを組み合わせて、これは二十歳になったときの作品だということですけれども、どうやって親元から離れて自立していくか、自立とは何か、ということを自分なりに探している作品なんです。
その探し方が結構すごくてですね、具体的にいろんな所を開けたり、かき分けたりして探しているようなイメージというのが出て来るんですけれども、すごく自分の中で思い詰めているような感じもするんですね。
それは私もそうだったのかなあと思うんですけど、端から見ているとそういう探し方っていうのは若さゆえ、そして彼はたぶん何かしら、外に出ていける突破口というものを探していると思うんですよ。
コメントにも書いてあるんですけど「cage」というのはカゴという意味がありまして、これまで自分を守ってくれたもの、親、それは言い換えるとカゴでもある、と。
自分をこれまで守ってくれた環境というのがあるんだけれども、でもそのカゴの外にはもっともっと広い世界が広がっている、これから出ていきたいし、出ていかなければならないんだけれども、出て行くにはどうしたらいいか?探しているんだけれども見つからないし、それをどう探したらいいのかもちょっとよくわからなくなっちゃってる。
そう、ドロドロしながら探し回っちゃってるんですね。
それは端から見ていて、例えて言うとメガネがないないと探しているんだけれども、自分の頭の上にあったとか、それぐらい、すぐ側にあるものだと思うんですけど、でもそれが見つからない、そうしたジレンマみたいなものをずーっと追っていっている作品なんですね。
もしそこでぐるぐる回っているだけであったらそこで終わってしまう作品なんですけれども、この作品を選んだ理由というのは、完全にこの中では彼は突破口というのは見つけていないんですね。
ですけれども、最後、ラストシーンで自分が歩いているシーンがあるんですが、それが映っているスクリーンを写 しているもう一つのカメラがズームアウトしていくんですよ。
ということはスクリーンに映っている自分と、ズームアウトした側にもう一人の自分がいる。
そこで初めて客観的に自分を見ることができているんですね。
で、今まで無我夢中で探し回っていた自分を距離を置いて客観的に冷静に自分をみることができている。
彼はおそらくここで、その後突破口を見つけていけるきっかけをつかんだんじゃないかな、と思います。そういう意味では、これからその先に広がっていけるかもしれない、そういった広がりも感じますし、希望も感じるし、まさに歩き出そうとしている作品だと思います。
ただその混乱はひどくて、外に出たいんだけれども、やっぱり外の世界は知らない世界であるから怖いんですよね。
不安で不安で、でその不安は今度はどういう風に出てくるかというと親への甘えというか、そうしたものが過去の8mmのイメージとして出てきて、現在のビデオのイメージとかき混ぜられたりするんですけれども。
 
『妄想気分』
清水継祐
video/17分/2001

主人公は覗きが好きです。ダンボールの中、知らない家の夕食、洗濯機、乾燥機といろいろ覗いていきます。 乾燥機の中に見たのは一本の道でした。そしてとぼとぼ歩いてゆくと、道の先にはすべての答えがあると言う人が現れます。
人の一生の中に分かれ道はいくつもありますが、時間だけは常に過去から未来という一つの方向へ向かうものなので、人生の時間軸を一本道に例えたりすることも出来ると思います。が、とにかくここに道は『進めばその先に何かが待っている得体の知れないモノ』として存在しています。 いろいろ戸惑いながらも、最後に女の子は道を走って行きます。どうなるのでしょうか、あの顔から想像すると転んで痛い目にあうでしょう。そのあといいこともあると思います。多分。

作家プロフィール
本名清水継祐。昭和51年10月24日生まれ。 大学で自然科学を専攻し卒業後、映像制作、音楽活動に励む。 現在、ショートムービー、ビデオクリップを中心に制作活動並びに就職活動中。
 で、歩きだそうとして、今度は歩き始めた、と。
外の世界に歩き始めたというところで、どんどん歩いていけるか、といったらこれはなかなか不安なことなんですよね。
その不安さというのを描いているのが「妄想気分」です。
「妄想気分」は2人の人間が出て来るんです。
1人は長い道をひたすらとぼとぼと歩いている女の子。
彼女はずっと続く道の終わりがいつ来るのか、というのを知りたがっているんですね。
もう1人は既に道の終わりを知ってしまった男。
その男は既に道の終わりを知ってしまっているので、もう歩くのを止めてしまっているんです。
高い煙突に登ってしまってそこから下を見ている、という。
その女の子はとにかく毎日毎日その道を歩いていくんですけれども、終わりがないから不安でたまらない。
やっぱり人間、自分の未知な部分があるのはすごい不安な事だから。
で、毎日歩いてある場所に行くんです。
その場所に行くと、男が出てきて彼女に話しかけるんですけれども、その男は道の終わりを知っているんですね。
で、私はそこからの展開が好きで、すごく優しくその男は女の子に話しかけるんですけれども、道の終わりを知っているのに、そして女の子は知りたがっているのに、教えてくれないんですよ。
で、最終的には、その女の子に、あなたは道の終わりを知らなくてもいい、とまた歩かせて道に戻してやるんですね。
で、自分は1人で煙突に登ってしまうんですけれども。
煙突に登るというのは死を意味すると思うんですけど、実際人があっさりとぼろぼろ煙突から落ちてくるシーンもあるので、そういう風にも受け取れるんですが。
まあその男は、まだその女の子は死ぬべきじゃないと思ったんでしょうね。
で、あえてその先の見えない不安な道に彼女を戻してあげて、彼女はまたその道を歩き始めるんですけれども、その歩き方というのは何か違ってくるんです。
ラストシーンではすごく明るい顔をして歩いたり走ったりしているんですけれども、だからといって不安がなくなったというわけではないと思うんですね。
だからその走り方に感じる明るさというのは、何というか根拠のない明るさというか。
先を知ったからうれしくて明るいっていうじゃなくて、先を知らないんだけれどもとりあえず歩いていける勇気を持ったというのかな、勇気を持つことで出てきた明るさみたいなものをそのシーンに感じるんですね。
ほんとのあの女の子の走っている表情とか大好きなんですけれど、彼女自身はこれから全くどうなるかはわからない。
作者のコメントにもあるとおり、彼女はこれから先転んで痛い目に遭うでしょうし、でもそうやって不安を抱えたまま走る、不安をあえて否定しない、というところが好きなんですね。不安を抱えたまま歩いていける、そういう強さが欲しいと思う。
 
 実際、生きてくってそういうことだと思うんですよね。不安を抱えたままでも歩かなきゃいけない、ということだと思っていて、先程「自分探し」という言葉があんまり好きじゃない、と言ったんですけれども、それはなぜかというと、今は何でも"探す"時代だと思うんですよ。
何かを探さなきゃいけない。
例えば、心の不安定があったらそれを探さなきゃいけない、で、ヒーリング、という言葉になっちゃったりとか。
あるいは、毎日凡庸で平坦な生活を送っていて、じゃあ何か生き甲斐を見つけなきゃいけない、で、がむしゃらに頑張ってみたりとか。
でも私はそれをやったところで、心の中の不安なものや得体の知れないものが、そう簡単に消えるものではないと思ってるんです。そんなことじゃないだろう、と。
ただ世の流れやメディアはそういうところを煽っちゃってるんじゃないかなあ、と。
で、そういう言葉に対して嘘臭さを感じてしまったりするんですけど。そんな簡単なことでは消えない。
でも消えないということをネガティブに思わない、消えないものを抱えていく勇気がほしい、と私は思うんですね。
 
 「場所探し」といって皆が探すもの。
皆、絶対的なものを探そうとしていると思うんですね。で、それを見つけたらもう安心という。今の私よりももっと新しい自分、今のところよりももっといい居場所があるんじゃないか、とか。
常に絶対的な場所を探しに行っていると思うんです。私は絶対的な場所というのはそう簡単にはない、というよりもない、と思ってます。
もしその絶対的な場所を見つけたと思っても、時間の流れがあって物事の変化があるということは、それを見つけたときの状態というのも変わっていきますよね。
それを取り巻く状況だって変わっていくし、自分だって生きている限りは時間が流れていくのだから変わっていくんです。
そうなると、変わらないもの、絶対的なものというのはそこでは見つからない。
或いは見つかったと思っても、それが変わらないということは"死"に繋がってしまうと思うんですね。
例えば「妄想気分」での、道の終わりを知った、ということに繋がってくると思うんです。動いている限り、生きている限りは何かしらこう、常に自分の変化と共に進んで行かなければならない。
 
 そうしていったときに、じゃあ私はどうしたいか、ということでそれが「移動する"此処"」という事に繋がってくるんですが、私は常に動いていたい、と思うんですね。
そこで思い浮かぶのが、私は散歩が好きなんですけど、またバスとか車に乗っているのも好きなんですけど、それはなぜかというと、自分が動いていくことで景色もどんどん動いて開けていきますよね。
開けてきた景色に対してその瞬間瞬間で、あ、これが見えたとか、これを見てこう思ったとか、ああ感じたとか、いろいろ考えている。
で、それに対して自分の中でもどんどん変化が出てくる。
移動すること、というのはもちろん自分の周りもどんどん展開していくんだけれども、自分の内側も展開していくものだと思うんですね。
そういう意味で、常に移動していきたい。
もしどうしても場所という言葉を使っていくというのであれば、それは移動しているその瞬間瞬間で自分の足元にしかないのだなと思ったわけです。
それでその「移動する"此処"」という言葉を使ったんですけれども。
その瞬間だけというと、何か刹那的にも聞こえるかもしれないんですけど、でも私にとっての生きていくというのはそういうことかなと思うわけですね。
移動するときは先は見えないんだけれども、でもその不安を抱えながら動いていく、そういう強さがほしいと思ったりするわけです。
 
『まばたきを5つ』
吉田直由
8mm(ビデオ版上映)/17分/2001

水のたゆたいを観ているのが好きです。キラキラと判然としないかたちの、いえ、反射をみていると、今までのことも今のこともこれからのことも過ぎては消えていき。 フィルムの始まりと終わりに写りこんだ光は水の反射のようでもあってまばたきのようでもあります。5つのまばたきと6つの断片を紡いだ、7つの「虹と匙ひとつ」の続編のような趣の作品です。

作家プロフィール
1976年、東京生まれ。99年、イメージフォーラム付属映像研究所卒業。4本の映画を製作。98年「このひとバラッドか」「蜃気楼」、99年「虹と匙ひとつ」、01年「まばたきを5つ」。02年、2年前から企画しているアニメーション映画、「千の羽音」製作予定。現在絵の勉強中。
 で、そういう強さを感じさせる作品というのが2つ目の吉田さんの作品です。 吉田さんの作品というのはですね、普段の日常風景と、1つ大きな事としてお父さんが亡くなったことがその中に入ってきます。

 ここで、先程の場所探しの話へ少し戻るんですけど、皆不安定なものを否定して何か探していこうとするときに、自分の中に得体の知れないものがあるというのはすごく怖いことだと思うんですね。
そこでどうするかというと、それを引き出して具体的な形を与えて、それを知ろうとする、わかろうとする、そして解決してしまおうとするという気がします。
私はそれを不幸自慢といったりするんですが、あと岡崎京子という漫画家がいるんですけど、彼女が後書きで言っていたのが、エキセントリック自慢とかナイーヴ合戦とか。
それは自分の中の得体の知れないものを引き出してそういうわかりやすい形を与えることで、わかる、解決していこうとする手段だと思うんですが、私は自分の中の得体の知れないものというのはそれだけでは解決できないと思うんですよね。
なかなかそういうふうには出来ない。
で、そのようにわざわざ取り出すという方法を私はあんまり好きではないんですけれども。
ただ吉田さんの作品に関しては、お父さんが亡くなった悲しみとか不幸は出て来るんですけども、私がそれでもこの作品をいいと思ったのは、まずお父さんが亡くなったという事柄があって、その前後に彼は日常風景の坦々としたエピソードを重ねているんですね。
自分の友達を撮ったりとか風景、桜が散る様子や季節の移り変わり、近所の様子など。
そういうのと同じレベルで自分のお父さんが亡くなったということを並べている。
で、全体的なトーンとしては、全て坦々と語られているという形になっているんですね。

 例えば普段どんな大きな不幸があって悲しみがあったとしても、もちろん吉田さんにも悲しみはあったと思うんですけど、悲しみのところに留まろうとしても、時間だけは動いていってしまいます。
そうなると、どんなに悲しんだ不幸とかもどんどん過去のものとして後ろに流されていってしまう。
自分がそこに留まろうとしても周りの世界だけはどんどん当たり前のように動いていってしまう。
要するにどんなに大きな悲しみや不幸があってもそういうものは、普通の時間の流れの一筋に過ぎない。
自分のお父さんは亡くなったけれども、自分は毎日同じ時間を坦々と過ごしていくんだ、ということをさらっと描いている作品だと思います。
そういうところが強さだと思った。
ひとつのことに留まらないでどんどん自分のペースで時間と共に坦々と進んでいける強さ、というふうに私は見ています。
そういう意味では先程の「妄想気分」の走っていく女の子と同じく、何かそういうもの全てを抱え込んだまま歩いていけるという強さを持っている、と思ったんですね。
 
 実は吉田さんの作品を紹介してもらったのは、カタログの協力に五代さんという名前が載っているんですけれども、彼はキュレーションをやっている人で、五代さんのお母さんが吉田さんのこの作品を見たときにこう言ったそうなんですね。
例えば彼は転んだとしてもあまりハラハラしない、と。
転んでも一人で立ち上がってまたスタスタ歩ける人だから、安心して見ていられる、というような話をしたらしいんですね。
私はその話を聞いてすごく共感して。
カタログの方に友人からもらった手紙の一節ということで、「不幸の直中でも背筋をのばして歩いていたい」というのはその五代さんの言葉なんですけど。
吉田さんの作品というのはそういう感じかなあと思っています。そういう強さがある人だなあと。
 
 それで、確かにそういう強さがあって前にどんどん進んでいければ理想なんですけれども、ここでちょっと、今日のもう1個のキーワードが出て来るんですが、親とか故郷。
今回の作品のもう一つの共通点になっていて、もちろんそうやって進んでいけることは理想なんだけれども、それでもふとした瞬間に親とか故郷とかに自分が向いてしまうのはなぜなんだろう、と思ったんですね。
場所は自分の足元にしかないと基本的には思ってるんだけれども、そういうところにふっと向いてしまうのは、じゃあ何か確かな場所にもなりえるのかなあ、と。というところで、今日は「ホームラン」という作品をかけようとおもうんですが。
 
『ホ−ムラン』
金川貴子
video/20分/1999
第22回東京ビデオフェスティバル・ゴールド賞受賞作品

中沢さんに、なぜフランスパンなのか尋ねられたので、お答えします。 (注:なぜバットの代わりにフランスパンを振るのか、という質問に対して) あれは、私が工場で部品組み立てのアルバイトをしていた時のことです。 ドライバー片手にネジを巻きながら、何度も頭に浮かんだのは、 '木の下でフランスパンを貪り食らう女' だったからです。 それから、何年か経って『ホームラン』ができました。 撮影はとても順調で、私の脳味噌も快調でした。 出演者の池田さんの感想は「なんせペンギン川であろた」だそうです。 人それぞれのホームランがあるように、ホームランドには色んな思いがあるものですね。

作家プロフィール
芸術家集団POFFUCACAポフカカの管理人として、絵本とビデオの制作中。 http://www.h2.dion.ne.jp/~pof/
 〜「ホームラン」上映〜

(話に)出てくるのは、もう結婚もして穏やかに暮らしている人なんだけれども、あるきっかけで自分の故郷へ戻っていってしまうんですね。
訪ねていったついでに、昔の故郷のイメージも引きずられていく、最終的にはまた現在の自分に戻って行くんですけれども。
自分の故郷に戻り始めたとき、「僕は明日に向かって前進するだけだ」とか言いながらも、昔の女と一緒にフランスパンを振ってみたり、どんどん過去の中に巻き込まれていくんですね。
あのシーンを見てて思うのは、故郷に戻るときというのは何かしらのイメージを持って向かっていくんですよ。
期待というか。
そのイメージというのはあくまで昔自分がそこにいた頃の過去のイメージなんですね。
でも過去のイメージは持っていったところで、その場所にも時間は流れて変化はしているんだろうし、自分だって過去から時間が経って変わってしまっているわけだから、必ずしも自分の居場所がそこにあるわけじゃないんですよね。
そこにはまるわけはない。この男も結局そこに戻っていくんですけれども、戻っていったところでそこで待ち受けているのは変な悪夢で、そこに巻きこまれていって混乱していくという。
でも最終的には自分の奥さんが待っている現在に戻っていく。
でも、一番最後でおじいさんの横顔が映っている、あれはさらに何十年後かに再び故郷へ戻っていく主人公なのかなあとも思ったりするんです。
過去に今の私がはまる場所はない、とわかっていても向かっていってしまう故郷とか親とかって何だろう。
で、考えたのは、確認するため。
過去、故郷からずっと歩いてきて今この瞬間私の足元までの過程とか経緯が見える場所、自分が"此処"いるんだということを確認するための、相対化できる場所として故郷はあるのかな、と。
移動して進んでいくんだけれども、時々振り返ってはずっと続いている道を見て、今私はここにいるんだということを感じることができる。道を進んでいると、目の前の先は見えないけれども、過去に歩いてきた道というのは当然知っているわけですから、振り返って確認するということは当然できるのかなと、思うんですね。
 
 そういうことを考えているときにふっと思ったのが、トーヴェ・ヤンソンが書いた「ムーミン」という童話なんですけれども。
「ムーミン」の話、私は初めて本で読んだんですね。
「ムーミン」って、実は長い話で7冊ぐらいシリーズがあって、その中で変わったキャラクターがいろいろ出てきて、それについていろんなエピソードが語られていって、結構深い意味を持ってそうでおもしろいんです。
その中にニョロニョロというおばけが出て来るんですよ。
細長い白いオバケで目しかなくて、手がこの辺についていて、いつもふわふわ動かしているというオバケなんですけれども。
ニョロニョロというのは常にいろんな島を渡り歩いているんですね。年柄年中。
でもニョロニョロが一体どういう目的でどこに向かっていっているかというのは誰も知らないんですよ。
というのはニョロニョロは耳も聞こえないし、口をきくこともできないので誰ともコミュニケーションがとれないんです。
ムーミンのパパというのがニョロニョロの生き方に憧れてしばらく一緒に旅をしたことがあったので、そのお父さんが語るんですけれども、その話によると、ニョロニョロはいろんな島に行くんだけれども、年に1回だけ、ニョロニョロの島というのがあって、そこに戻って来るんですね。
世界中にバラバラになっているんだけれども、年に1回だけ何百匹とそこに戻ってくる。
そこで何をしているのかは誰にもわからなくて、ただ集まってわさわさしているだけ。
それからまたバラバラに世界中に散っていくんですね。
で、いろんな島を訪ねていく。ちょっとその訪ねていく部分を読みたいのですが、、、
 
 〜「ムーミン」朗読〜
島にはいろんな種類のがあるけれど、遠くにある小さい島というものは、みんな例外なしに、さびしくてかなしいものです。
風が四方からふきつけるし、黄色い月はみちてはまたかけていくし、海は夜ごとに石炭みたいに黒くなります。
それでも島は、いつまでたってもかわりません。ときたまニョロニョロたちが、たずねてくるだけなんです。
それらの島は、ほんとうの島でないことだってあります。
岩しょう・岩・さんごしょう、見すてられたほそ長いみさき---それらは夜があけるまえに水の下にしずんでしまって、夜のあいだにまたまわりのようすを見るために、水のおもてに顔をだすことだってあるでしょう。
だれにだって、わかるものですか。
ニョロニョロたちは、そんな島を、のこらずたずねるのです。
ときには、しらかばのまきものが、そこでかれらをまちうけていますし、ときにはなんにもありません。
そんな小島は、いそ波のあいだにのぞいているあざらしのせなかみたいにすべすべのこともあれば、赤い海草がまわりにうちあげられた、ぎざぎざの岩のこともあります。
でも、どんな島の頂上にだって、ニョロニョロは、小さい白いまきものをのこしてくるのです。

(「ムーミン谷の仲間たち」トーベ・ヤンソン作/山室静訳/講談社)
 
 ニョロニョロがあらゆる島、もしかしたら島ではなくてただの岩かもしれないところさえも1個1個訪ねていく。
なぜ訪ねていくのかはわからないんだけれども、そこでのニョロニョロの行動というのがあって、ニョロニョロは、白いまきもの、シラカバの木の皮をむいてくるくるっとなったものを訪れた島に必ず落としていくらしいんですね。
それは何かの証拠のために置いていくんじゃないか、と。
自分が訪れたんだよ、という証拠を落としていくんじゃないかと。
ただ必ずしも自分の仲間がそこにきて、それを見つけてくれるかはわからないので、見つけてくれない限りはなかなかその証拠にはなりえないと思うんですけど。
で、私がそこまで読んで一つ思ったのは、ニョロニョロの歩き方ということともう一つ、さっき言った「場所探し」が作品の目的でないとしたら、作品を作るというのはどういうことだろうと考えたときに、このニョロニョロの話を思い出して、常に足元を確認しながら移動していろんなところに訪ねていく、移動していく、訪れたその時々で感じたことを残していく、そういう意味ではそのニョロニョロのシラカバの皮を残していく、というのは私が作品を作っていくということに似ているな、と思ったんですね。
だから何かを探すという形で前を見ていく、そのために作るんではなくて、今私がこの場にいる、その場で感じていること見ていることをまとめて、それをそこに残していく。そういうほうが私はいい、私はそうなりたいと思うんです。
今回この「移動する"此処"」というタイトルでいろんな事を考えていって、私は常に移動していきたい、常にその瞬間瞬間で感じていることを形に残していきたい、それが作品を作るということでもあるな、と。
ただし歩いていくときには先の見えない不安というのが内にはある、でもそれはあえて消さなくてもいいんじゃないか、抱え込みながら歩いていく強さというのを持てたらいいなと思いますし、そうした私の考えを表してくれている作品というのを今日一日見せてきたんです。
 
 今回はこういう風に作品を集めて語るということでやったんですけれども、この「移動する"此処"」というのは少しずつ形は変わっていくかもしれないんですが、私の中でずっとやっていくテーマではあると思います。
私自身がこのテーマに沿って作品を作るかもしれないですし、今回の目的の一つは、この考えを聞いて他の人がどういうことを思ってくれるだろう、そういう反応を何かしらの形にしてもらえたら、と思ったんですね。
それは今回アンケートを配ってますのでそちらに書いていただいても結構ですし、この中には私の知っている限りでも映像や音楽や言葉や踊りを作ったりする人がいる。
いつか何かの形に出来たときに一緒にできたらなと思います。
あとは実際、私も周りも転換期にありまして、これはそんな友人たちへの私からの勝手なエールでもあるんです。とはいえ、皆ひねくれた人達ばかりなので、素直にこれを受け取ってくれるかはわからないんですけれど。
 
2001年12月
中沢あき
 
 
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