「フッテージをときほぐした1コマより/
MOTアニュアル2002・フィクション?絵画がひらく世界」
2002年1月19日〜3月24日 東京都現代美術館
中沢 あき(映像作家)
1時間半の映画 の中で我々が実際に見ているのは約50分間でしかないということを大林宣彦が話していたが、どういうことかというと、フィルムの動画の場合、1秒間に24コマの画が流れる瞬間とそのコマ同士の隙間によって成立する残像の錯覚によって人間は映像上の動きを知覚している、つまり画を見ている時間そのものはそれだけに過ぎないということである。しかし1秒間に24枚の画像情報とは結構な量
で、いかに動画というものの情報量が多いのかと思う。更に言えば、ビデオの場合は30コマ/秒と増えるのだが、情報が増えればいいというものでもない。60コマ/秒までが人間の知覚の限界らしく、私は体験したことがないのでわからないが、それ以上の速度は辛くて画面
を見ていられないそうだ。そこまでではないにしろ、私たちは日常的に24ないしは30コマ/秒の情報量
をそのまま受け取っている。例えばマイブリッジの馬が走る連続写真から始まった動画が、実は連続する静止画であるだけということをいつのまにか忘れている。
列車がスクリーンに突進してくる様を見て逃げ出したのも昔の話、と誰が言えるだろう?スクリーンのみならず、テレビからパソコンモニターから携帯電話の画面
からあらゆる所に溢れかえる映像を、そのまま認識している私たち。その通
りに起こり、在った事として。何故ならそれらはまるで現実のような動きを見せてくれるから。それが錯覚であるという事は既にいちいち考えられはしないし、その1枚1枚が何であるかなどと考える暇もない(というか、必要ない?)。その1秒単位
で詰め込まれた情報量の多さに圧倒されたまま、私たちはその垂れ流される画像を頭にそのまま通
過させていく。そしてその情報量はどんどん増していき、それを滞らせないためにも流れの速度は速くなっていく。その代わり、わかりやすいように過剰なまでの説明が付け加えられていく、考えなくてもよいように。そしてその説明が加わった分だけまた情報量
が増え、情報を詰まらせないためにも流れは速くなり、そして私たちはますます考えることがなくなり、眼を血走らせながら必死で画像を追い続け....、ストップ!
「今は世界の進度が速過ぎると思う」
皮肉にもそんな過剰なメディアであるTV番組の中で、とある米国人男性がそう語るのを見た。それは映像メディアについて語られた言葉ではなかったけれど、ハイテクノロジーによってスピードアップされた現代社会への批判は充分ここにも当てはまる。それでは流れを止めて、再び1コマの画から見つめてみようか。そのたった1枚から私たちが考え得ること。
東京都現代美術館のシリーズ企画
、MOTアニュアル2002「フィクション?」展は、絵画の展示であるのにとても映像的だった。それらの1枚1枚の静止画から私が感じ得たもの。
ある時間枠の中で進行するドラマという形式。例えば映像の中では人間が動き、言葉が語られ、時には音楽が鳴り、背景が変化し、そうして物語が展開していく。今村哲の作品は絵である。止まった1枚もしくは数枚。そしてその絵の中の世界を物語る文章が添えられている。
川で溺れた双子の兄妹、急流に飲み込まれ、兄の体の中に妹が入り込んで1つになってしまった物語。ギロチンにかけられた後、行方知れずとなったルイ16世の首がビンの中でアルコール漬けになったまま、どこかをさまよっている話。そして金城哲男が壁に描いたウルトラマン、消えかかった絵から、金城のつぶやきが聞こえる、ありがとう....と。
それらの「嘘のような本当のようなお話」。不思議な寓話から選び抜かれた1シーンより観客は思い思いに情景を思い描く。
ここで立ち現れる時間軸はその文章によって敷かれていく。その軸に導かれながら、"1コマ"の絵からの映像を観客は個々の内に結ぶ。しかしそれが出来るのは単に絵と言葉が補い合う関係性のみに因るものではない。今村の絵と言葉が持つ力がそれぞれ観客の想像を喚起するのだ。今村の絵自体の雰囲気がそうなのか、もしくは話自体の奇妙さなのか、本当にあったようなウソ?のお話という微妙なバランスを保った位
相の世界が現れる。それは非現実の話を可能な限りリアルに表現しようとする最新の視覚技術に対して、絵画という、それも非写
実的な描写で"現実にあったかもしれない"話の真実味をさらに曖昧にしてしまう。在りえたかもしれない過去のエピソード、として観客を頷かせてしまうその喚起力。それは今村の作品が、"1コマ"の絵でも動画と同じような物語がそこに展開する時間軸を持っているからである。
映像表現の1つである実写、そして絵画が持つ写
実性。 紺泉の絵は決して写実的とは言えない。唯物的に身の回りのモノを描き続けるとしても、描写
そのものはデフォルメされた様相を持つ。にも関わらず、「茶わん」の絵は生々しい輝きとみずみずしい質感を持つ。ざらついた陶器の手触りと、その中に満たされた液体が表面
張力によって縁からあふれる寸前にわずかに盛り上がっている様子に、思わずはっとさせられる。こうした皮膚感覚を喚起させる描写
は、実写映像にもまけていない程のみずみずしさだ。
映像は1枚の絵が連続する故に動いて見えることなど忘れがちなどころか、知らないでいる私たちの眼前に、改めてそのフッテージをバラバラにときほぐしてみせるのはタナベマサエである。
痕跡、フィルムに収められた記録、影の跡。タナベマサエは1コマ1コマに写
し取られたその痕跡をクッションの上に描き起こし、少しずつずらしながら縦に並べていく。並べられた十足らずのコマに写
るのは、1人の女性の後ろ姿の淡い影。少しずつ歩幅が開いていき、コートの裾のスリットが揺れる。その連続性は確かに被写
体/被描体の動きを感じさせ、色の淡さは8mmフィルムの手触りを思わせる。「2.2秒のカフェカーテン」に至っては、薄地の布に描かれたフィルムのコマ数が、確かに40枚程あり、描かれたやはり淡い色彩
の絵も、8mmフィルムに写し出された薄い色の風景を思わせ、それは映写されている画のような感じがある。それは元は連続した動きとしてあった全体からの部分的な抜き出しであり、それゆえ今にも動き出しそうなイメージとなり得ている。
今展の話ではないが、Craig Mcdeanというファッション写
真家がいて、数年前に彼が手掛けたある広告写真がやはりそうしたイメージを持つものだった。モデルをフルフィギュアで写
したショットは、シンプルに体の動きを捉えたもので、しかしそれは整ったポーズを撮るのでなく、何かのアクションの途中を止めたような写
真であり、動作の終わりの決めの点を撮る写真が多い中で、それはその中途半端さが奇妙な雰囲気を生み、そこから再びモデルが動き出しそうな連続性を含んでいるのだった。
さて同じくコマを意識した作品、佐藤純也の「scene」は縦11×横34=計374枚の35mmフィルム用マウントが壁一面
に並べ留めてあるものである。そこに写るのは青空に飛ぶ小さな飛行機。雲一つなく晴れた空や、様々な形の雲がかかった空に飛ぶ、様々なアングルから捉えられた飛行機の影。しかし実はこれは写
真ではない。空は青く塗られた地で雲は白の絵の具をさっと掠ったもの、そしてチョンチョンとサインペンで小さく飛行機らしきものを描いた絵なのである。笑えてしまう程簡単なこれらの絵も、離れて観ると、それはそれはリアルな像として現れる。そして何百枚と並べられたそれらの様々な動きは、連続写
真のように飛行機を高い青空の中に動き回らせる。
1枚の絵から、もしくは画から人は想像によってimageを連続して動かしていく。しかしそれは静止画だけの話ではない。動画であってもコマ間の隙間は錯覚によって埋められているのだ。前述の大林宣彦の話に戻るが、私たちが見ているのが90分の内の50分に過ぎないのだとすれば尚更だ。映像とはimageなくして成立し得ないはず。例えば60コマ/秒を越える映像がとても見るに耐えられないのと同じで、過剰に情報が詰め込まれた映像は私たちの想像が入り込む隙を与えてくれない。反対に究極に情報をそぎ落とした1枚の絵は、足りないものを自分で補うようにと、想像力を喚起する。
そしてこれは映像に限らず、作品を見せるという事の原点でもある。1つの事を介して相手の想像力を喚起すること。そしてこれは本来の意味での双方向のコミュニケーションでもある。その想像が行き交う瞬間「あなた」に通
じること。
映像をVision(視覚)とするかImage(心象)とするか。
映像=imageとは一体何か。それは眼前の画面上に現れる像の事ではない。imageという言葉が示す通
り、それは観る者の心象に結ばれる像の事である。タナベマサエの作品名の英訳には「imaginary
room」とあるが、まさに想像、つまりは頭の中の映像として成立するものなのだ。そしてその映像を作り出す要素は作品そのものである。たとえその18〜30倍/秒という形で展開することができようとも、同じ事。動画だからより多くを語れると思うのはおこがましい。それはただ単に画の展開のみに過ぎず、決してimageを結ぶ事はできない。
visibleなものとしての映像はますます溢れかえるだろう。映像の時代と呼ばれる時期に否応なく突入させられていくこの世の中、浮かれたように「映像の重要性」を説く人々は果
たしてその違いを知っているのだろうか。単なるvisibleなものとしての映像を垂れ流し続けた結果
、私たちはますます考えることを止め、ぼんやりとそれらを眺めながら自らのimageを失っていく。現に想像力が乏しいゆえのコミュニケーション不全やら犯罪心理やらが指摘され始めている現代社会において、しかしながらこの急流を止めることはおそらく不可能であろう。ならばせめてそこに疑問を投げつつ再提示していけるのがアートの持つ可能性ではないか。
「絵画はこのようなマスメディア〜終わりを迎えたメディアだといわれる」とありながらも、ニューメディアが忘れがちなimageという事を再認識させてくれた今展、こうした意味で同館の別
室にて開催されていた某女性作家のCG作品よりもはるかに映像的であった。
「MOTアニュアル2002・フィクション?絵画が開く世界」は、以下のWeb-siteに過去の記録は
掲載されているが、詳細は未掲載。おそらく年明けにUPされるのではと思われる。
http://www.mot-art-museum.jp/ex/p_hist.htm |
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