2001無礼講Vol.9『移動する"此処"』
<カタログ序文>
中沢 あき(映像作家)
「移動する“此処”」
移動する、ということ。次の場所へ、新たな地へ、どこかの方向へ。
その行動の目的は何なのだろう? “場所”を探すため?
“場所”とは、おそらく自分のアイデンティティを確認させてくれる場所。
「場所探し」は「自分探し」とも置き換えられる。近頃の流行りは何かを“探す”こと。
昨日見た、ある映画の予告編はこう言う。「失われたもう片方の魂を探しに」
でもそんな絶対的確信に満ちた場所なんてあるのだろうか。
もし場所などないのだとしたら? もしもう片方の魂が見つからなかったら?
もしくは信じていた自我の形などないのだとしたら? 私たちがこれまで信じてきた“探
しもの”がないのだとしたら?
本当はうっすら気づいているのだ、“場所”など探し出せないことを。
気づかないふりをしているけれど、でもそのことは決して絶望的なことじゃない。
なぜならその先に“場所”がないことを知ってしまっても、歩き続けることはできるから。
本当は“探す”ためではない、ただ"歩く"ために動いているのだ。それでも“場所”を作りたいのなら、それは今すぐここにある。常に自分自身の足元を“場所”として歩くこと。
「移動する“此処”」
一つの目的地に辿り着いてしまうのではなく、歩き続けていくこと。
移動することで次々に周りの景色が動いていくこと。
そこには終わりのない希望と期待がある。それらに導かれて歩いていく私たち。
さあ歩き出そう。これまで自分が在った場所、生まれ出た所から歩き出し(『cage』)、延々と続く道の向こうに何があるのかはわからないけれどもとりあえず胸躍
らせつつ走り出してみて(『妄想気分』)、不安になれば故郷に戻るのだけれども今の私の場所などはなく(『ホームラン』)、故郷がなかろうが親がいなくなろうがそんな事に無関係で時間はよどみなく流れ、目の前の道も平坦にいつも通り続いていくのだ、とたんたんと歩き続けていく(『まばたきを5つ』)。
目の前で次々に起こる事、身の上、周りの変容を見ながら、「私の歩き方」というのを最近考えている。崩れかけて混沌としている状況に、私は楽観もしないし、絶望もしない。友人からもらった手紙の中の一節。
「不幸の直中、地獄の泥沼の中に立ちつつも、決してその痛みに掴まることなく、スイーとスタスタと背筋伸ばして歩いて居たい。」
昔からしなやか、という言葉が好きだ。根拠のない自信とプライドを懐に、凛々しく背すじをのばして、しなやかに、かろやかに歩いていければいいと思う。
2001年11月
中沢あき
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